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2015.08.11

ランチアLC2

ジャガーやメルセデスが参戦するまで、グループCの世界で圧倒的な力を持つポルシェに対抗できたのはランチアだけだった。速いが耐久性に欠けていたLC2を、リチャード・ヘーゼルタインが振りかえる。

かって活躍をしたレースカーを撮影スタジオに持ち込むのは、私にとって特別なことだ。子供の頃の記憶がまざまざと呼び起こされたり、二度とないはずの出来事を追体験できたりする。ランチアLC2の場合はどうだろう? 初めて英国にやってきたのは83年のシルバーストーン1000kmレースだが、皆の記憶に残るほどに実際速かったのだろうか? フェラーリ製V8ツインターボの唸り声と共にテールパイプから炎が出るのを本当に見たのか? 今となってはレースで走った記憶さえ、おぼろげになってしまっている。それから30年が過ぎた現在、LC2の評価は当時とはやや違ったものになっているのだ。

当時、グループCを好んで観戦していた人たちの間で、LC2は根本的な疑問を投げかけられていた。
市販車でスクエアなスタイルが好まれるようになっていた時代に、スポーツプロトタイプならではの魅力的なラインを持ったクルマが登場したのだが、それとは別に、侃々諤々の議論を巻き起こした。マルティニのストライプをまとったマシンをドライブするのはイタリアのエースたちで、彼らはF1がない週末だけLC2に乗るのだ。なぜグループCに本気で取り組まないのか? それは皆が疑問に感じていたことなのだ。

現実はやはり厳しく、LC2がその人気に相応しい活躍をすることは出来なかった。予選では抜群に速く、ランチアとフェラーリの名に相応しい期待感を煽ったが、決勝レースに勝ったのはワークスチームのポルシェ956が参加していないときだけだ。デビュー戦の83年モンツァ1000kmで、いきなりピエルカルロ・ギンザーニが956に1秒近い差を付けてポールポジションを獲得。その後さらに12回も予選を征して速さを見せつけたのだが、1000kmの長丁場でロスマンズ・ポルシェを凌ぐことはできなかった。80年と81年にグループ5のベータ・モンテカルロでメイクス・タイトルを得た実績とは、まったく程遠い結果だったのである。

それまでグループ5と6で争われていた世界スポーツカー選手権はエントラントが減り、いくつかの有力メーカーが弱小チームを相手に勝利を独占するようになっていた。そこでスポーツプロトタイプのレースを活性化すべく、FIAは燃費規制を軸とするグループCのレギュレーションを制定。82年からこのグループCによる世界耐久選手権をスタートさせた(85〜90年は世界スポーツプロトタイプ選手権、91〜92年は世界スポーツカー選手権と呼ばれた)。

しかしランチアは新レギュレーションに向けた本格的なマシンを持っていなかった。そこでワークスのマルティニ・レーシングは82年、レギュレーションの抜け穴を突くグループ6のLC1で参戦。グループ6は燃費規制を受けないかわりにメイクス選手権の対象外となり、ドライバー・タイトルだけを争うことになった。結果としてタイトルを得たのはポルシェ956のジャッキー・イクスだが、LC1を駆るリカルド・パトレーゼはイクスに迫る活躍を見せた。

なぜランチアがこの1年限りのオープントップ・プロトタイプを開発したかと言えば、答えはシンプルだ。LC1のエンジンはベータ・モンテカルロから移植した1.4ℓの4気筒ターボ。燃費は悪いが、ランチアにはこれしか選択肢がなかった。しかも忘れてならないのは、ランチアにとってスポーツカー・レースはいつも、最大関心事のラリーに付随する余興のようなものだったということだ。LC1は比較的小さな予算のわりには大きな成果をあげたが、グループCに統一される83年にはもう出走できなかった。

チーム監督のチェザーレ・フィオリオは新兵器LC2の開発を決断した。このプロジェクトはランチアにしては大きな投資だったが、ポルシェに比べれば小銭程度の予算だった。「とにかく予算の限られたプロジェクトだった」と振り返るのは、シャシーを手掛けたジャン・パオロ・ダラーラ。「出来る限り既存のパーツを流用しなくてはいけなかったし、充分な開発はついぞ行えなかった」。実際、ポルシェが82年から956を投入していたのに対して、ランチアのLC2開発はプロジェクト全期間を通じて後手に回っていた。

ランチアとフェラーリの協業は、これが初めてではない。ただし、50年代にランチアがGPレーサーのD50をフェラーリに譲ったのは、ランチアの経済的な危機がもたらした偶発的な出来事で今回は状況が全く違う。80年代初期にはすでに、フェラーリもランチアもフィアットのファミリーになっていた。だからこそLC2はフェラーリからエンジンを調達できたのだ。この”ティーポ282C”と呼ばれる2.6ℓの(84年から3ℓに拡大)V8は、一般的には市販のフェラーリ308用をチューンしたものと信じられているが、実はそうではない。いくつかのパーツは共用とはいえ、ゼロからグループC用に設計したものだ。しかし残念ながら、これがLC2のアキレス腱になってしまった。KKK製のツインターボを得て620psを誇ったものの、耐久力に欠けていたのである。

83年2月9日のプレス発表を経て、2ヶ月後のモンツァ1000kmで実戦デビューしたときから、LC2には辛い体験がつきまとった。このモンツァでテオ・ファビと組んだのがギンザーニだ。彼はまだF1には乗っていなかったが、予選で主役を演じ、ポールポジションを獲得した。しかしパドックでは、イタリア国内のプレスに好印象を与えるために「モンツァ用のスペシャル・エンジンを持ち込んだのではないか」とか「レギュレーション違反の過給圧だったのではないか」などと陰口が囁かれたものだ。ギンザーニが予選用タイヤを巧く使ったのは確かだが、この元F3チャンピオンがLC2のテスト走行の大半を担当したこと、そしてモンツァが彼のホームサーキットだったという事実も指摘しておくべきだろう。

決勝でもギンザーニはスタートから快走し、23ラップまでトップを守ったが、左後輪のバーストによりリタイヤを喫した。”パラボリカ”ではなく、その直後のストレートでアクシデントが起こったのは不幸中の幸いだ。もう1台のミケーレ・アルボレート/リカルド・パトレーゼ組もピレリのトラブルに悩まされだが、なんとか9位でゴールに辿り着いた。こうした結果を受けて、ランチアはタイヤ・サプライヤーの変更を決断。次戦のシルバーストーンからダンロップを使うことになった。

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